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2011/10/22

おもいやりだけでは破綻する

 以下は,『たのしい授業』1988年11月号に掲載されたものです。私の障害児教育の原点のようなものです。
 わたしの「これから」を考える上でも,もう一度整理しておきたい問題です。

おもいやりだけでは破綻する  ●すべてに通じる障害児教育研究の基本問題

         板倉聖宣 国立教育研究所(当時)
         伊藤守編 東京・江戸川養護学校(当時)

 肢体不自由の養護学校に勤務するようになって6年目になります。大学を卒業して普通高校に3年,定時制の工業高校に5年勤め,その後に今の学校に勤務するようになったわけですから,ポクにとっては今の学校が一番長いことになります。最初から「障害児教育をなんとかしよう」と意気込んで養護学校に勤務するようになったわけではなくて,たまたま養護学校に配属されたというだけなのですが,それでも,「せっかく養護学校に行くからには少しは勉強しなくては」ということで,いくつかの本屋をまわってみたのですが,これぞというものがない。
 しかし,「障害者教育研究3」(現代ジャーナリズム出版会,1978年11月6日発行,現在は「障害者の教育権を実現する会℡0488-32-6966」にて取り扱い)という本の中の「〈討論〉集団の中でこそ 三たび盲児統合教育をめぐって」篠崎恵昭,平林 浩,高橋秀治,板倉聖宣)で板倉さんが発言されていることは,ボクのノーミソの奥底にいつも残っていました。10年余りも前の記録なので,板倉さん自身の考えにもいくらか変化があるかもしれませんが,ボクにとっては今でも根本的な問題提起をしているように思えます。
 そこで,その記録の中から板倉さんの発言だけを取り出し,勝手に見出しをつけてみました。そして,それについてのボクのコメント(ツブヤキ)-を入れてみました。この「ツブヤキ」などは,ボク自身の見方によって板倉さんの発言の主旨を不当に歪めている可能性も多いと思います。
 ですから,まず,板倉さんの発言だけでも読んでみてくださるといいのではないかと思います。障害児教育には関心がなくても面白いのではないかと思うのです。そして,「その板倉さんの発言を,肢体不自由の養護学校に勤務している一人の教師がどのように受けとめたのか」といった感じで,ツブヤキをも読んでいただけるとうれしいです。
 この「<討論>集団の中でこそ 三たび育児統合教育をめぐって」の構成は次のようになっています。
 1.感覚遮断からの脱出(篠崎報告)
  2.しのぶを囲む子どもたち(平林報告)
  3.盲児に省略をどう教えるか(平林報告つづき)
  4.外側から支える者として(高橋助言)
  5.いくつかの問題提起(板倉)
  6.約束ごとからの導入,是か非か(討論)
  7.友達の評価をてこに(討論つづき)
  8.発見から科学へ(討論むすび)
 まず,1~3で実践報告があり,それを受けての討論という形
です。この中から,5と8の板倉さんの発言部分を紹介します。
                        (下線は伊藤)

       いくつかの問題提起

 ●おもいやりだけでは,いつかは破擬する

板倉 平林さんの話で気になったのは,お祝い会の場所がしのぶちゃん〔平林氏の報告の中の普通学級の中にいる盲児,小学校2年生〕の意見で,動物園から公園に変更になるという事件がありましたね。そういうことは一回や二回だとひじょうに美談になりますが,何回か続くと確実にひどい話になってきます。しのぶちゃんなんかいなければいい。そレたら動物園にいけたのにと,一回ですぐにそう思う子どもは少ないかもしれないけれども,二回目,三回目になると差別発言をしたくなる。なぜかといえば,しのぶちゃんがいることでクラスの多くの子はがまんしなければならないことになるわけですよね。いなければ行けるわけですからね。集団の問題というのはひじょうに難しく,美談に終わらせてはいけないですね。それが一つ。
 グループを作ったときに,そのグループ自身が部分的な社会を作っているときはあまり問題がないんですね。ところが障害走の例のようにグループとグループの競争になると,また,誰かさんがいるからとか,いないからとかが確実にでてきますね。そのときに,「あったかい思いやりでいきましょう」ということでどこまでいけるのか,その保障はどうするのか。これはなにも障害者の問題だけではないですね。つまり,足の遅い人間がいるとか,統制にしたがわない人間がいるとか,さまざまな人間がいることがいつも問題になるわけですから一般的な問題にもかかわってくるわけですね。
 そういう問題を,今まではどちらかといえば精神主義的に克服するということでやってきた。しかし,それを精神主義的にやると,必ず反動がでると僕は思う。「だれだれさんのためにわれわれはきついんだ」と。そして,ふと「俺たちは損をしているなあ」ということにならないのか。そういう裏返しのでやすい状況を作ってはいけないですね。また,それをうまく処理する方法を考えないと,ある日突然破綻する,ということが起こるのではないかと思います。

ツブヤキ:山田明彦君〔愛知・大府中学校〕が,以前「障害児教育の根本問題は何か」みたいなことを質問してくれたことがあって,その時ボクは,「あまりにも安易な〈ヒューマニズム〉がはびこっていることじゃないか」みたいに答えたことがあります。たとえば,ボクみたいなヒネタレ者の目から見れば,「普通校では統合教育の問題しかり,養護学校では希望者全貞就学の問題しかり」だと思えてしまうのです。
  というのは,普通校にしろ養護学校にしろ,学校にその生徒を受け入れる以上,それに見合った教育内容を用意しなければなりません。
 しかし,今の現場にそれだけの用意があるかというと,ボクは疑問に思わざるを得ないのです。もちろん優れた実践をされる先生はいます。しかしそれで一般論を展開するのはあまりにも危険なことではないでしょうか。
 たとえば,ボクみたいな障善児のショの字も知らない人間が,ポッと養護学校に行くケースだってたくさんあるんです。だとすれば,そういった先生に運悪く子どもが出会ってしまっても大丈夫なように,具体的な教育内容と方法を準備しなくてはならない。そういった準備なしに,一般的に「どんな子も普通校に」とか「どんなに障害が重くても学校へ」とかいうスローガン(だけ?)を掲げてしまうのは,ボクは恐くてしょうがないのです。(ボクには板倉さんの「模倣の時代」仮説社刊,に出てくる,脚気患者を目の前にした当時のお医者さんの姿が,なんとなく今のボクの姿に重なって見えてしまうのです)
 そして,こういった「〈いいかっこをしたいという思い〉だけで動くと,とんでもない結果を招くことがある」という教訓がなかなか生かされてないのは,それほど仮説実験授業の精神=仮説・実験の論理=結果主義で考えることが難しいということでしょうか。

 ●くいつもさわる必要がある〉 というのは経験主義

板倉 平林さんの報告の中で,しのぶちやんが「アリを描くのはいやだ」と言ったという報告がありましたね。子どもたちはただ見たって,アリの足なんか見えませんよね。これが,同じ教材でも鳥の絵を描けというのなら明らかに見えますけれど,「見ないで描け」というんでしょう。やはり描けないわけですよね。
 しのぶちゃんの方は,にわとりをさわったことがない。どうしてさわったこともないにわとりを,私が描けるか,と言う。
 それは,目の見える子どもが「私はにわとりの絵を描いたことがない,どうして描けるのか」というのと半分似ているわけですね。見ているわけですからね,片一方は。
 つまり,目が見えなくてさわったことのない人間は永遠にわからないんですけれど,目の見える人間は描いたことはなくても見たことはあるんですね。僕らは,わからないからこそ描くという問いかけをしますけれど,確実なものではないわけです。
 ある意味では篠崎先生の実践のように,たえず確実にさわらせるというと,逆に保守的になりますね。さわらないものはわからないんだ,という経験主義にもなりかねない。目の見える人には,そこのところにクッションがあって,目で見るという認識の仕方と,確実に認識するというのと二つある。それは実は,「原子の絵を描きなさい」と言ったときに,目の見える子どもたちも見たことはないわけでしょう。「そんなこと言ったって,俺は見たことないから描けないよ」と言えばそれまでです。しかも,そのときは,しのぶちゃんとまったく同じ条件です。そのように,イメージになったときには,目の見える人も見えない人も,同じなわけです。

ツプヤキ:育児にとって点字が必要なように,聾唖者に手話とか補聴器が必要なのと同じように,肢体不自由児には,書けない・話せない・聞こえないなどのハンディを克服するための自助具としてワープロとかパソコンが必要なのだ。
 しかし,つきつめて考えたとき,それだけで,すべての肢体不自由というハンディに対応するのは,かなり大変,いや,原理的にくハンディに対応する〉という考え方だけでは無理なのかもしれない。だとすれば肢体不自由に対応する具体的手だてとしては,自助具としてのパソコン以外にも考える必要があるだろう。
 例えば,人間としての社会性などをもっともっと有効に利用する方法(つまり,他人の認識を自分のものとするということ)というのもあり得るであろう。また,肢体不自由であることによる特徴一例えば,「手書きによるメモなどが出来ないことによって,かえって暗記力が発達したりする,せざるを得ない」といったことなど-を生かすことも考えられるであろう。
 しかし,これまでの実践からも裏付けられたように,自助具としてのパソコンが決定的な役割を果たすことも確かにある。自助具としてのパソコンの利用が,決定的な意味を持ちうるのはどのような時か。それを一つずつ明らかにしていく必要がある。
 というのは,〈肢体不自由児は,いつもいつも自助具としてのパソコンを使ってなにがしかの作業をしなくては新しい認識は得られない〉という考えにあまりにもとらわれ過ぎてしまうのも,一種の悪しき経験主義だからである。要は,ノーミソが活発に働くことが大事なのだ。

 ●目の見えないことは不幸なことか

板倉 また,目の見えない人の認識の仕方というのは;目の見える人よりもあるところでは鋭いことを感覚しますね。たとえばウサギを骸骨で造るというようにです。そのとき,その鋭さを残した方がいいのか,普通の人間なみに育てた方がいいのか,目の見える人間とは違った側面がつかめるその特性はどうするのかと。つまり,普通なみにすればその特性を退化させるわけで,もったいない話だ,という感じが僕らはするわけです。
 結局,統合教育で普通の目の見える子どもと同じように育てるのに,普通の子どもとどこまで同じようにしたいか,どこまでは違うようにしたいか,あるいは違うべきか。分離教育の人たちは違う面を強調しているんじゃないでしょうか。それも,もっともな面もあるわけでしょう。-生懸命普通の字を書く訓練をしていれば,点字を書けなくなる,書く速度が遅くなるということがあります。実際にそういう人達にとっていちばん役立つのは点字で,自分でレーズライター〔ボールペンで書くと字がうきあがる特殊な紙〕に字を書いたって,それを読むのは大変なわけです。すると,どちらの世界を大事にするかということが出てくると思います。
 また,ある意味ではそういう文字を書くのは,アメリカ人が日本語を習うようなものです。つまり,ローマ字を書く人間の世界と,ひらがな・漢字を書く人間の世界とが交渉するということですね。どこまではいっしょにし,どこまではいっしょにしないか,ということについてはいまはまだ低学年だからシャープにはでないが,これからは問題としてでてくるということもあると思います。これからは同じ世界という面が強く出てくるんじゃないでしょうか。抽象化されるわけですから,具体的な場合には違う問題がでやすいわけで,ですから,こういう方向がわれわれにとっても教訓的なわけです。ある意味では,目の見えないことはすごく不利なことだけれども,その反面,有利なこともないわけではない。そのところを大事にしなければ,目の見えないところの相対的に不利な状況だけを強調してしまうことになる。目が見えないということは不幸なことだけれども,そればかりでなく,目の見える人間の不幸といえる場革もあるわけですね。たとえば,暗闇で行動するときのように。この二つの問題をきちっとしていくといいんじゃないでしょうか。

 ●標準化と発見の喜び

 板倉「ずいぶん大変なことだなあ」と思いますが,新しい問題がどんどんでてくる楽しさがあるわけで,そのことに引きずられて研究はしばらくは続く。いわば新しい事柄を発見する喜びで研究は持続する。
 しかし,そういう新しいことが発見される段階での問題と,統合教育が大衆化する場合の問題とは違う。それが,もう一つの問題としてありはしないか。例えば,科学者が研究するときに,新しい事柄を発見するときには大変な困難が伴うわけですね。それを後から模倣する人はずっと困難が少ない。しかし,模倣する人には発見の喜びがないんですね。新しい人は,いばらの道をかきわける困難さの中に,発見の喜びがたくさんあるわけでしょう。平林さんや,篠崎さんの報告はみな新しいことになり,これから実践する人は,かなりの部分が両氏の発見や予想の後追いになる。もちろん新しい発見もあるわけでしょうが,だんだん後追いになる。そうすると情熱が違ってくるわけで,ますます制度的な問題がかかわってくるのではないかと思うんです。とくに科学化ということを問題にしたときには,標準化ですから,標準化というのは,いばらの道をかき分ける困難がなくなり楽になる,そのかわり,かきわける楽しさがなくなる,そのあたりを将来の問題としてどうしたらいいのか,ということもーつ考えておく必要があるのじゃないか,そんなふうに思います。

ツブヤキ:昨年,都内の肢体不自由の養護学校にパソコンを導入するに当たって,機種選定段階においていろんな議論がなされた。その時,ボク達が考えた機種選定の基準の主なものを挙げておくと,

 肢体不自由児の自助具として利用しやすいもの,あるいは,肢体不自由教育の教材・教具として使いやすいもの。(具体的には,書けない・話せない・聞こえないなどのハンディに対応するソフト及び入出力装置が作り易いこと)
 しかし,将来的なことを考えると,パソコンなんて大嫌いな先生でも肢体不自由教育をなんとかしようという先生なら,簡単に使えるようなものでなくてはいけない。

ということがあった。特にボクは,自分自身がパソコンとかプログラミングそのものはあまり好きでも得意でもないので,第二の観点をも強く主張したのであった。
 つまり,仮説実験授業が熱心な教師なら誰でもできるようにいっさいの準備をするのと同じように,肢体不自由教育にとってパソコンとかワープロというものが,必要欠くぺからざるものであるなら,パソコンなんて大嫌いな先生でも簡単に使えるようになっていなくてはならない(もっとも,その前提として「肢体不自由教育をなんとかしよう」という熱意があることが必要なのはいうまでもないが)。
 そういう意味での〈標準化〉(その最たるものが,未来のコンピュータTRONの標準仕様の中に障害者仕様をあらかじめ組み込んでおくこと)ということを強く意識したのである。
 しかし,よく考えてみたとき,く標準化路線だけでどこまでいけるだろうか〉つきつめて考えておく必要があるようにも思う。というのは,「〈消費者〉が少数である=障害がかなり多様であってそれぞれが本当に少数である」ということは,これからの研究をすすめていく上で,かなり考慮しなくてはいけない問題だと思うのである。(もちろん,少数であるということはプラスに作用することとマイナスに作用することがある。少数であることによるプラス面とは,手作りによるプラス面が即出るということ。子どもの状態にぴったりしたものが出来,その〈生産者〉も相当の充実感が味わいやすい。マイナス面とは,大量生産・つまり標準化がきかず,いろんな意味でのコストが高くつくということである)
 だから,〈手作り路線〉も,〈標準化路線〉と同じくらいのウェイトで考えておく必要があるのかもしれない。つまり,少数であることのメリットを最大限に生かすためには,〈標準化路線〉というものを強く意識しつつ,手作りの良さが表面に出易いような組織形態を考える必要があるのだ。そして,ここが重要なポイントなのだが,〈手作の良さを生かすための組織的な条件は,逆に,標準化することによって生まれることも多い〉ということに注意する必要がある。というのは,襟準化することによって生まれた余裕を手作りに回すことが出来るからである
 しかし,とはいえ,ソフトとハードの両面から,マイコンを肢体不自由教育に活用しようとすることは誰にでもすぐに出来るというものではない。
 だからこそ,〈どんな先生でも使おうと思えば使えるような分業・協力的な組織体制〉の実現が望まれるのだ。

 ●発見から科学へ

板倉 よく,科学研究ではデータがたくさんいるということを言う人がいるんだけれども,僕はそれは嘘だと思います。たいがい科学研究はデータが多すぎて失敗する。読めなくなっちゃうんですよ。-つだったらいろいろなことを想像することが出来るでしょう。予想してから実験することで,その考え方でいいとか,違去ったとか,はっきりするでしょう。例が五十も百もあったら何も考えられなくなっちゃいますね。
 仮説実験授業の授業書のことで言えば,たくさんの実験データややるんですなんて言ってますけど,実際に決め手になるのは,数回の実践です。二,三回で決まっちゃうんです。下手して,誰かの授業例で訂正しようなんていうと,とんでもなく悪くなったりやすることがあるんです。だから,データが少ないということは決してまずいことではない。むしろ研究を早めるには有利な-面もあるかも知れない。読み込んでいくと外れるかも知れないけど,大胆に読み込んでいって,その結果を他のケースに当てはめてみて,だめだったらもう-回読み直す,というふうにすればいいわけです。
 また,それを果てしなく続ける必要はないですね。普通の人はたいがい果てしなく続けちゃうんですね。ちょこちょことちょっとずつ積み上げるんですね。そればかりでなくて,ときにはそこからバッととばせばいいんですよね。バッと飛ばして,これでだめなら今度は真中にいけばいいんですよ。そうしたら割合に早くできますね。天秤を使う場合を思い起こして下さるといいのですが,ちょこちょこやって果てしなくやっていっても,なかなか計れないですね。数回で見当がつかないんだったら,もうその辺には解答はないんです。遠くの方にあるんですね。このような方法でやると,かなり急速に法則が見つかってくる可能性があると僕は思うんです。
 その法則と,ここで議論になった価値観に属することもありますね。価値観に属することは,拾うときに全然違っちゃうんです。例えば,どれだけ模倣させていいとか,模倣させていけないことか,全然逆の方向でしょう。これはね,どうしようもないことですね。今のところはね,試行錯誤でやっていくしか。でもね,これだけ熱心な人たちがやってる時は試行錯誤はあっても,取返しがつかないなんてことは,まずないと思うんですね。反論もあるということを念頭においた上で,今の所はこれでいくというように大胆にやっていけばいいですね。つまり,価値観に属することは,哲学的な問題として残しながら,同時に研究は進めていく。価値観に関する議論を果てしなく続けてもどうしようもないですからね。ただ,自分の早い込みだけを,後生大事にとっておいたら,たいへんなことになることだってありうるわけだから,そこは柔軟に構えつつ,すすめていくということじゃないですか。

 今年の夏,愛知県の三河ハイツで開かれた〈「科学入門=仮説実験授業」講座〉に参加しました。その際に,教育委員会に提出したその参加主旨を再録しておきたいと思います。上記の板倉さんの発言から,ボクが考えたことがまとまっていると思うのです。

 1.生徒の科学的認識を育てるにはいかにすべきか。科学教育では定評のある仮説実験授業について研究を深める。
 2.仮説実験授業研究会は,
 ①科学の最も一般的基礎概念を
 ②熱心な教師なら誰でも
 ③楽しく
授業できるようにいっさいの準備をする。肢体不自由の養護学校にもパソコンとかワープロが導入されるようになったが,これまでは,ともすればパソコンとかワープロといった,いわゆる〈メカに強い教師〉が中心になってそれらに実践を進めてきた。しかし,これからパソコンとかワープロを使った教育実践を,もっともっと肢体不自由の養護学校の中で普及させていくためには,仮説実験授業研究会のいう,熱心な教師なら誰でも(=メカに強くない教師でも)それらの実践が可能なようにする方向で考える必要がある。そのためには,どのようなことを考え,どのようなことを準備すればよいのか,研究会に参加し,研究を深める。

 統合教育の分野でも,分離教育(障害児学級とか養護学校)の分野でも,あるいは盲教育・聾教育などなど,障害児教育と呼ばれている分野でそれぞれ優れた実践をしている先生はたくさんいると思います。しかし,それがボクのようなごく一般的な教師にマネが出来るような形になっているかどうかといった視点で直視したとき……。
 そして,これは特に最近痛感している事なのですが,障害児教育の場合,普通教育以上に;それぞれの先生が置かれている状況というのがとてもわかりづらくなっている。というのは,たとえば,普通校に障害児を受け入れようとする立場の人と,養護学校の中で障害児教育をすすめようとする立場の人が,あまりにもそれぞれの〈思い〉とか立場に固執し過ぎていて,結果で判断することをしない。〈相手〉との間に壁を作りすぎている。-ボクにはそう思えてなりません。
 そんな中で,ここに引用した板倉さんの発言というのは,障害児教育の研究の方向性を最も基本的な部分から考え直すための重要な視点を与えているようにボクには思えます。できれば,この板倉発言をもとにしながら,何人かの人たちと「障害児教育研究のこれからの方向性を考える」といったようなテーマで,といっても単に抽象的な議論だけに終わることなく,それぞれの置かれた現実的な状況をもとにしながら語りあってみたいな-,なんて考えている今日この頃です。                1988.9.28

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